処分は「研究業績の評価」と「業績リストへの記載」を意図的に混同したものー松田素二氏(京都大学教授)

以下は、2016年2月25日付けで富山地裁に提出された松田素二氏(京都大学文学研究科教授)の陳述書の抜粋です。

同氏の許諾を得て、掲載します。

===================================

この陳述書は、私の研究者および大学人としての経験にもとづき、公平な視点から書かれたものであることを、 あらかじめ、お知らせしておきます。

「刊行予定」に関する富山大学側の主張をみると、そもそも「業績」についてどのように捉えているのかという出発点が、人文社会科学系の慣行とはずれているように思えます。

この点について富山大学の主張は下記の2点に要約されると考えます。

1 本来研究業績とは公刊されたものであり、そうなって初めて業績一覧リストに記載が許される

2 例外的に物理的「実体」がある場合、研究業績として扱う慣行がある。その「実体」とは( 1 )ゲラがある場合( 2 )組版にまわす原稿がある場合である。


この主張はいっけんもっともらしく見えますが、そもそもこの点が人文社会系の現実(慣行)とは大きく異なっているのです。
まず研究業績として評価されるのは、公刊されたもの以外にはありえません。まだ公刊されていないものを、ある研究者の研究業績として社会的に評価されることなどあるはずはないのです。

富山大学側の主張は、「研究業績の評価」という研究者の核心点と、「業績リストへの記載」とか「例外の事例」などの「審査のさいの手続き」を混同させている点で、基本的に間違っていると言わざるを得ません。

研究業績の社会的・学術的評価は公刊されたもので行われますが、審査のさいの業績リストへの記載については、刊行予定業績も含むことは慣行的に認められています。そのさい、どのレベルのものを含むことが適切かという公的な(文部科学省、日本学術会議、日本学術振興会、さらには個別の学会が定めたという意味での公式ですが)基準は存在しません。

そもそも、こうした本来の業績(刊行済みのもの)以外の業績の取り扱いについては、審査委員会もしくは審査委員の専権事項であり、ある委員会もしくは委員はまったくとりあげないという決定をしたり、別の委員会もしくは委員は、ゲラのみ認めると判断したりします。 その場合でさえ、 刊行済みと同等の業績として取り扱うかどうかは、そのときどきの審査委員会もしくは審査委員の判断に委ねられているのです。

したがって、 この本来業績には含まれない「業績」は、 業績審査のなかではまったく周縁的な情報にしかなりえません。 なぜならいかにゲラがあろうが、 原稿があろうが、 予定であろうが、 「刊行済み」ではないのですから、 「刊行の予定さえ担保されていれば、どのレベル(たとえ学会報告の概要のレベル)で、あっても記載は自由です。

また、 業績リストに、 どのような記載の仕方で刊行予定業績を記載しても、 審査する側にとっては「刊行済み」の業績とは異なり、 周縁的な情報でしかないということに、 なんらかわりはなく、審査側に取扱いの判断が委ねられていることになんらかわりありません。審査委員会もしくは審査委員がそれをどう取り扱うか決定し一律に適用することによって、 公平性は担保されるからです。


==================================


2017年01月12日|コメント:弁護士・研究者のコメント