法人化における権力集中のための「見せしめ」の処分ー内堀基光氏(放送大学教授、一橋大学名誉教授)

以下は、内堀基光氏(放送大学教授、一橋大学名誉教授)の意見書の抜粋です。
同氏の許諾を得て、掲載します。


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富山大学による同大准教授竹内潔氏への懲戒免職処分について聞き及んだ当時から、 私は処分対象の事由と処分内容の間のあまりにも大きな懸隔に驚き、そこには竹内氏と処分の判断を行なったいわゆる執行部を構成する教員、および(あるいは、かもしれません)一部事務職員の間に公にすることが出来ない別の事情が隠されているのではないかと憶測をしてしまったほどです。

国立大学から国立大学法人への移行、いわゆる法人化の時期に当って、大学内部の意思の統一過程あるいは権限が、それまでの教授会から広い意味での執行部、さらには法制的な意味での理事会(役員会)へと集中されるにともない、多くの(旧)国立大学において さまざまな確執が生じたことを見聞きしてきた者として、このような疑念をもつことは比較的自然なことであったと思います。もちろんこうした疑念、疑惑には客観的な根拠はありませんが、それを疑わせるほどに竹内氏への懲戒免職という処分は平衡を欠くという印象を与えました。

処分事由となった業績書記載における瑕疵は、国立大学時代であれば、私が経験したような一部局の長の判断にもとづき大学の上級執行機関が 裁可する事柄として、まさしく瑕疵の語に相応しい程度の事柄であると考えたからであります。こうした瑕疵は、教員の採用人事においてもあるいは昇任人事においても発生しうるものであり、昇任人事に限って言えば、仮にそこに自己の業績を過大に見せようとする一定の作為が認められた場合でさえも、訂正の要求と、昇任の凍結を伴う厳重注意ないし戒告処分が相応というのが、一大学人として私個人の判断であったでしょう。

瑕疵をあえて重大・悪質な違反として懲戒免職という処分を行なったことは、法人化における権力集中のための試行、俗に言えば「見せしめ」のような効果を期待しているのではないかという疑いを私の心中に惹起するに十分でありました。

研究機関、高等教育機関としての大学においては、その設置形態の知何にかかわらず、いかなる恐怖による支配が行なわれることがあってはならないというのが、もとよりの私の考えだからであります。


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2017年01月22日|コメント:弁護士・研究者のコメント